鳩になった子供に教えられたこと。

先日、うちの娘きいなが7歳になった。彼女は、親の私が羨ましくなるくらいピュアで真っ直ぐで、実は私のロールモデルだったりもする。

彼女の優しさも、どこか一本筋が通っているところも、私たち親のお陰ではなく、彼女の生まれ持ってのものであり、彼女の世界観のお陰なので、親バカと思われるかもしれないが、私は胸を張ってみんなに言える。

きいなは、かっこよく素敵な人間だと。 男の子?女の子?

私たちの住んでいるアメリカでは、特に他に比べてプログレッシブな街と言われるここポートランドでは、自己紹介の際に、名前と同時に他人に使って欲しい人称代名詞(pronouns)を伝えることが普通になってきた。She/Her/Hers、He/Him/His、 They/Them/Theirなど。娘にも幾度となく、彼女の希望する人称を確認してきたが、以前から一貫して彼女が言い続けていることがある。



私は、きいな。男の子や女の子である前に、私は「きいな」なの。
だから、SheでもHeでもなく、「きいな」がいい。


そして、もし他人がShe、Heなどを使わなければいけない時は、どっちを使ってもいいとのこと。トイレなどは、女の子用を使う。けど、「女の子だから」「女の子なのに」ということは彼女には通じない。だって、きいなはきいなだから。 娘についての文章を書く時、きいなではなく「彼女」と書くたびに、正直どこか違和感もある。そんなきいなを知っているから。以前、そのことも彼女と話したことがある。その時、彼女はさらっと答えた。



「彼女って書いていいよ。なんて呼ばれても、きいなはきいなだから。」


軸はぶれずに、柔軟である。

見習いたいものだ。


食べられる建物

きいながまだ5歳だった頃、家族で”what’s in your head”(「なに考えているの?」)ゲームをしていた。このゲームは、一人が頭に何かを思い浮かべ、他の人たちは「Yes/No」で答えられる質問をしながら、その「何か」を探るというもの。


きのいな番が来て、みんなで順番に質問をした。


「それは動物?」
「No」
「今日それをどこかで見た?」
「Yes」
「それはきいなより大きい?」
「...Yes」


そして、私の番。


「それは食べられる?」


きいな即答。

YES!

その後も、色々質問したけど、全然わからなくて、みんなで最後はギブアップした。そして、彼女に答えを聞いてみた。彼女の答えは、


「建物」



・・・・・?

私はちょっと戸惑った。でも、きっと間違えたのだなと思って確認をした。「あれ、さっき食べられるものって言わなかった?」と。

その時の彼女の顔が忘れられない。まさに、鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔だった。私がなんでそんな質問をしているのか理解できない、そんなきょとんとした顔。そしてその後、何かをやっと理解できた顔つきになって言った。私をまっすぐに見つめて。


「人間だけが地球上に住んでるなんて思わないで。建物が木製なら、虫が食べることもあるでしょ。」


ちょっと前まで豆鉄砲食らった鳩の顔をした彼女のセリフで、私の目から鱗が落ちた。頭を殴られたような衝撃でもあった。

そうだよね、そうだよね。本当にその通り。

自分の世界観の小ささを少し恥ずかしく思いながらも、彼女の見ている世界を共有してもらったことが嬉しかった。きいなが人に対しても、それこそ自分に対しても、動物、自然、そのほかのものに対しても向けるピュアな眼差しとか、優しさとか、そんなものを一気に胸に吸い込んだ気分だった。


ママは大丈夫

そんなきいなは、ポートランドの大学病院で生まれた。長男と同じように自宅で水中出産をする予定が、彼女が出産予定日直前にいきなり逆子になるという選択をしたため、緊急帝王切開として病院で産むという結果になった。病院嫌いの私たち夫婦に、それはとてもショックな現実で、以前にも書いたが、きいなを産んだ次の日に車椅子に乗って(前日にお腹切られて歩けないし!)、生まれたての彼女を連れて自宅に帰ろうとし、夫が危うく「生まれて24時間以内の赤子を誘拐した犯罪者」になるところだった。

その出来事から約6年後、きいなを出産したのと同じ病院で私は白血病の治療を受けることになった。去年の彼女の誕生日は、病院の面会室でのささやかなお祝いだった。

きいなを出産した時のトラウマもあり、病院に入院するのが嫌だった。それこそ子供のように駄々をこねたくもなった。でも入院前、そんな私にきいなは言った。相変わらず私をまっすぐに見つめて。



「ママは大丈夫」


きいなにとって、その病院は「みんなで私を救ってくれた病院」で、「私とママが出会った場所」だから、「みんながママも助けてくれる。ママは大丈夫。」だと。

そして不思議なもので、きいなになんの疑いもなく「大丈夫」と言われると、私もなんだか全て大丈夫のように思えてきて、大きな安心感を得た。癌患者にとって、その安心感は響き以上に心強いものだった。


母親だけど

そうやって、いつもきいなからたくさんの学びも安心感ももらっている。母親だけど、教えられているのも、助けられているのも私の方が多いのかもしれない。

でも、きいなの感覚からすると、私が「母親だけど」と思ってしまうこと自体が、私の世界を小さくしているのかもしれない。きいなが、何よりもまずきいなであるように、私たち親も、親である前に、まずは「わたし」である。それを前提に、自分の世界を改めて見てみると、わたしの世界は以前のそれよりよりずっと大きく、快適になった。

そして、彼女のように、「わたし」でありながら、ほかの生き物の個も尊重してみると、私の世界はよりカラフルに、より賑やかになった。毎日うちにやってくる「鳥」たちが、鳥から「ロビン」「ジェイ」「チッキディー」になった。彼らに対する愛おしさも生まれた。同時に、自分の普通の日常がより愛おしくなった。 いまだに定期検診で訪れる病院も、「私ときいなを救ってくれた場所」になり、嫌いな場所から、感謝する場所になった。重い腰が少し軽くなった。

これから一緒にどんな世界を共有していこう。考えるだけでワクワクしてくるものだ。