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おみくじに癌を言い当てられて、おみくじに命を救われた。私はもう一度おみくじをひけるだろうか。

私は一年の中で大晦日が一番好きだ。

誕生日よりも、クリスマスよりも、大晦日。

12月を日本で師走と呼ぼうが、ここアメリカでホリデーシーズンと呼ぼうが、やはり12月はなんだか忙しい。バタバタ慌ただしくすぎていく。気持ち的にもどこか落ち着かなく、常に何かをやり残しているような気分でいる。いつもよりなんとなく余裕がない。

それが、大晦日に向かうにつれ、半ば諦めに近い、いや寧ろ開き直りに近い感情が湧いてくる。「終わりよければ全てよし」。今日という日を、穏やかに笑って終えれば、この一年の嫌なことも大変だったことも、帳消しになってしまうのではないかという気持ちすら湧いてくる。

大晦日は、そんな太っ腹な気質と寛容さを持っている気がするのだ。

なぜか来年はより良い年になるという根拠のない確信に満ち、新しい幕開けに希望あふれる日でもある。明日から全てに対して再出発ができ、いつも以上に無限の可能性を信じたくなる日。一年かけて成功しなかったダイエットも、春から閉じたままの日記も、中途半端に終わった全てがまた再開するであろう元旦という日をそわそわ、ワクワクと待つ日。

大晦日とその先に見えるなんだかキラキラしたエネルギーが好きだ。

どれも、私の勝手な感覚の問題だけれど、とにかく私は大晦日が好きなのだ。


大晦日だ、海に行こう。

日常的に、季節ごとに、うちには子供たちと行う様々な習慣がある。

満月の日の夜は、外に靴を置いておく。靴の中に満月の妖精が月のようにまんまるの果物を届けてくれるから。味噌を仕込むときは、願い事も一緒に樽に詰める。クリスマスのラッピングは、茶紙を自分たちでペイントする。初めに見つけたきのこは収穫しない。それは森のモノだから。いつか本にして子供に託したいくらい、うちには習慣がたくさんある。


大晦日の習慣は、海に行くこと。海に沈んでいく今年最後の太陽に、この一年惜しみなく与えてくれた光と暖かさへの感謝をするために。ホットレモネード片手に、毛布にくるまりながら、太平洋に沈む太陽にみんなでありがとうと一礼をする。お礼のついでに、来年の幸せまでお願いしてしまうので、太陽にしてみたら、お礼を言われているのか、お願い事をされているのか、実はよくわからないかもしれない。

早起きがとことん苦手な私にとっては、元旦に初日の出を見るよりも、西海岸に住んで、大晦日の夕陽に感謝する儀式が我が家の習慣であることは至って都合がいい。だからオレゴン に住んでから毎年、旅行に行ってない限り、大晦日には海に行き、家族と太平洋を眺めながら「終わりよし」の日を過ごす。


2019年大晦日

2019年の大晦日は日本で過ごすことにした。夕陽にありがとうをいう大晦日と同じくらい、日本の年越しも好きだから。みんなで集まってそばを食べるのも、そのときに父が決まって口にする「みんな今年もありがとう」を聞くのも、実は全然興味のない紅白を無駄に何度もチェックしまうのも、なんだかすごく「我が家」を感じて落ち着く。除夜の鐘を聞きながら、お寺に向かって夜の町に繰り出す(大袈裟)なのも、なんだかスペシャルな感じがいくつになっても好きだったりもする。

半分日本人の血が入ってる我が家の子供達にもそんな空気を体験して欲しかった、というのは表向きな理由で、実際は冬休みに日本に行き温泉旅行に行きたいという思いが強かった。子供たちも年明け1月3日から始まる新学期よりも、「日本のお正月は、いっぱい食べてゴロゴロできる」ことを選んだ。

まさか、そんな家族旅行が途中で短縮され、緊急帰国するとは想像もせず。


運命を宣告された1月1日

大好きな大晦日を日本で過ごし、無事に新年を迎えた2020年1月1日。元旦だというのに、大晦日を幸せに終えた妙な満足感と共に見事に寝過ごした。でも、昨晩思いの外早く寝落ちした子供たちと一緒に、何よりもまず神社に初詣に行くこということは、なんだかとても大切なことのように感じた。


そこで、母がお雑煮を作ってくれているという状況に甘え、朝ご飯の前に、うちの家族と父と共に近所の神社に初詣に行くことにした。

新年のご挨拶をし、今年一年の家内安全を祈った後、みんなでおみくじを引いてみた。なんとなくそれも含めて初詣のような気がしたので、本当に何気なく引いてみた。日本語のよくわからない子供や夫の、自分たちのおみくじを見せながらの、「これどんな意味?訳して訳して。」に一通り答えた後、自分のおみくじを広げてみた。




のどけしと 見えし うなばら かぜたちて
小舟危き おつき しらなみ

小舟が俄かの嵐にあうように 思いがけない事で災難起こる  恐れがあります。

相変わらず「どんな意味どんな意味?」と聞いてくる夫に、"I will be like a tiny boat in the storm. "と訳した。なぜだか分からないが、小舟を「私」と訳したのを今でも鮮明に覚えている。その時の私は、密かにすごく落ち込んでいて、おみくじを写真にとったら余計本当になりそうで、写真にも撮りたくない、早く木に結んで忘れてしまおう、と思っていた。 なぜだか分からないが、私の心は「嵐」と「小舟」に思った以上の衝撃を受け、おみくじがどんな吉凶の種類だったのかも覚えていないほどだった。

しかしながら、ちょうど3日後に伊勢神宮に行くことになっていたので、そこでまたおみくじを引こうと心に決め、地元の神社を後にした。母の作ったお雑煮のもとへ向かって。気持ちを切り替えて、せっかくの日本の正月を楽しもうとしていた。


伊勢神宮参拝の1月6日

よく考えてみると、伊勢神宮の持つパワーを評価し、そこで引くおみくじの力で、地元の神社のおみくじを上書きしようと思ったこと事態、失礼極まりない。いいことを言われるまで、おみくじを引き続けるという発想からして根本が間違っているとも言える。でも、そのくらい2020年の初日に引いたおみくじの衝撃は大きかった。星座占いを見て、いいところだけ信じ、悪いところはしれっと流そうとする私でも。いや、星座占いでも、しれっと流しきれない時も多いから、私にとってあれは普通の発想だったのかもしれない。



自分の失礼さと、口で言うほど楽観的になりきれない性格は一先ずはさておき、伊勢神宮に着いてから知ったことは、伊勢神宮にはおみくじがないということだ。国民の総氏神である「天照大御神」が御鎮座される伊勢神宮は、参拝するだけでありがたい幸運なことであるため、吉凶を占うおみくじは必要ないとのことだそう。

確かに参拝できたということはとてもありがたいことであった。しかし結果として私は、やはり初めに引いたおみくじと共に2020年を歩むこととなる。


癌を宣告された1月8日

そして私は1月8日に癌を宣告された。伊勢神宮からの旅行から帰ってきた翌日にたまたま受けた人間ドックで。

嵐だ。


小舟に乗った1月13日

癌を宣告された3日後の1月11日、私は急遽手配した飛行機でポートランドに帰ってきた。皮肉なもので、いつか家族で行こうと話していたハワイを経由して。そして、その次の日の昼過ぎにポートランドの大学病院のERを訪れた。日本での血液検査の結果を片手に「白血病です。入院したい」と。今思うととてもおかしな行動だが、これが私にとってこの病院で治療を開始する最短の選択だった。

ERでの永遠に続くかのような待ち時間のあと、白血病病棟に移動できたのはもう夜の7時を回った頃だった。それから骨髄検査をし、そのまま病院に一泊したのだが、血液検査の値が割と安定していることと、1週間後に骨髄検査の検査結果が出るまでは、正式な治療方法が決定できないとのことで、しばらくの自宅療養の許可をもらう。それに、その1月13日は息子の9歳の誕生日だった。その日をせめて自宅で彼と過ごせるようにとの医師からの計らいでもあった。

病院を去る少し前に、ソーシャルワーカーの方が話をしに来てくれた。そして、一冊の冊子を渡された。

その表紙を見て、私は凍りついた。

あ、これだ。

私は、嵐の中にいる小舟なんだ。

ただ、冊子を読んで驚いたことは、その中で言う「小舟」に乗っているのは私だけではなかったということだ。誰かが癌になったとき、嵐を体験しているのは、当人だけではない。子供も含めたみんなが一緒に小舟に乗って嵐を突き進むのだと。一人きりではなく、あくまでも、みんな一緒に。嵐だけれど、みんなで寄り添って、お互いの存在と愛を感じながら進んで行く。そしていつか嵐が収まった時に、みんなが覚えているのは、ひどい嵐よりも、嵐の中で見た光の暖かさと、お互いを想いあった家族の存在だと書いてあった。

この冊子に書いてあった事は、嵐の中で見た初めての光だった。


小舟が届いた1月24日

1月23日再入院をした。検査結果の結果、アメリカでも正式に急性骨髄性白血病と診断を受け、抗がん剤治療を開始するために。早速その日の夜から抗がん剤治療を開始し、翌24日夫が病院に来たときに、息子からのお見舞い品を持ってきてくれた。 初めて折り紙で折ったふね。

おいおい、そうきたか。また小舟だ。 もちろん、息子はおみくじのことも、ソーシャルワーカーからもらった冊子のことも知らない。ただ、初めて船を折ってみたくなったから折ってみたのだという。


結局おみくじに命を救われた

ここまで「偶然」が重なると笑えてくる。でもそれは、何度も何度も私の前に現れた小舟が、ただの偶然じゃないとわかっているから。

シンクロニシティとでも、アルケミストのオーメン(前兆)とでも、虫の知らせでも、呼び方はなんでもいい。ただ、偶然に起きること、出会う人それらにはちゃんとした意味があり、メッセージがあり、大切なのはそれに気付き自分がどう行動するかだという。

私はこの小舟たちの「意味ある偶然の一致」に気がついた時、妙な安心感を得た。もしこれが運命だとしたら、私は丁寧にその道を進めばいいだけだから。そして、自分より遥かに大きなものを感じた。なぜか、その大きなものに守られているという実感があった。

だからこそ、治療開始から「白血病が治る」ということを信じて疑わなかった。私は、小舟に乗りながら嵐を航海してるだけだで、沈没するわけではない。そして、一緒に船で嵐を体感するみんながいるから寂しくもなかった。

でも、その絶対的な確信や、治るという前提で治療期間を過ごせたことは、結果的に私の治癒力を高めてもくれたと思う。一人ではない心強さを持ち、不安から解放されていたからこそ、穏やかに治療に専念できることができたのだと思う。


そして2020年12月24日

今年も残すところ後1週間。私は元気にクリスマスイブを迎えている。船の折り紙を作ってくれた息子は、嬉しそうに焼きのりで手裏剣を折って食べている。


我が家のクリスマスの習慣は、各自に小さなスポンジケーキを焼き、それぞれのクリスマスケーキを飾り付けること。今日はスポンジケーキを焼かねばだ。そして、来週にはもう大晦日。コロナの関係で行動自粛をしてきたが、大晦日にはやっぱり海に行きたいと思っている。

でももし、今回もまた日本にいたとしたら、私はもう一度おみくじを引くのだろうか。 実は何度か自問した。正直、分からない。今回は、おみくじに未来を伝えてもらった(と思えた)から、私の人生は少し楽になった。自分の置かれた状況から現実逃避することもなく、素直に運命を受け止められたから、前向きに治療に向き合えた。みんなが一緒に船に乗っていてくれることを知らされていたから、家族や友人からの愛やサポートも素直に受け入れられた。詰まるところ、おみくじに命を救われたと言ってもいいくらいだ。

それでも、自分にもう一度おみくじを引く勇気があるのか分からないのだ。理由はわからない。怖いのか。癌の宣告はPTSDになるくらいのトラウマを残すことがあると言われる。私が癌の知らせを受けた時、ただただ冷静だったことは思えていても、どれだけそれが私にとってショックだったのか、実はよくわからない。

先日、私の癌が発覚した当初の自分メモを発見して、涙を流す夫の姿をみた。私が癌になったということは、私以上に、彼にとっては衝撃で、私以上にトラウマを与えてしまったのかもしれない。それだけでなく、治療中に私の代わりに不安や負担を請け負ってくれていたのも彼や私の周りにいた人たちだ。

そう思うと、もしかしたら私は何よりもこれ以上家族を嵐に巻き込むのが怖いのかもしれない。これ以上私の運命のせいで、涙を流す人を作りたくないのかもしれない。

いや、やはり私自身がビビっているだけか。

様々な理由が頭の中に現れては消えをくし返すものの、正直な理由はやはりわからない。 常に世の中には自分の運命を示すメッセージが溢れている。それをどう受け取り、どう行動するかは自分次第である。もちろん、おみくじに書かれていることが全てではない。その上でも、これから先、おみくじに何を示されても動揺しなくらいしっかりとした軸を自分の中に持っていたいと思う。でもまだ私にはその準備ができていない。

だから今年はおみくじを引くかの決定をしなくていい状況に少しホッとしていたりもする。 1週間後の大晦日の日、いつも以上に愛を感じたこの一年の様々な想いを最後の夕陽にぶつけてこようと思う。今年一年の光へのお礼と、来年の幸せへの願い、挙げ句の果てには今年一年の家族や友達への感謝まで伝えられる太陽は、例年以上に混乱するかもしれない。

それでもやはり、一年の最後の日に、今年最後の夕日を見に行くのが楽しみだ。

それであっても、病気になって、日々感じる幸せが何よりのギフトだと再確認した。だから、一週間後の大晦日が楽しみであるものの、まずは、クリスマスを今年も家族で過ごせる幸せを感じてみようと思う。

だから、今は全ての人にメリークリスマス。 -----------

と最後に思ったこと。

この文章にはお寺も神社もそしてクリスマスも出てきた。私たちは何かの宗教に従うというより、自然界で起きてることやカレンダーにある行事ごと、月の満ち欠けに応じてイベントや習慣を行なっている。一つの宗教を崇拝している人にとったら、不謹慎極まりないのかもしれないが、私たちにとったら、この「なんでもあり」な感じが、まさにうちの文化で、うちの宗教で、習慣で、私たちの生活をより豊かに、より楽しくしてくれるものであったりする。 ただでさえ、伝統的な慣習と自分で勝手に解釈したウエスタンな文化行事の入り混じる日本で育った私と、カトリックの家に生まれたのにコテコテヒッピーになった両親に育てられた夫、シュタイナー系の森の学校へ行っていた子供達、そんな私たちで構成されたうちの家族。そりゃぁ文化も混ざるわ。 でも、自分たちで作り上げた、自分たちだけのセレモニーをするときの子供たちの表情や、季節の歌を木々に歌って聞かせる子供達の誇らしげな態度が、うちはそれでいいや!という想いを強くさせてくれる。

というわけで、これからも自由に我が家の文化を築き上げてみようと思う。うん、それでいい。 ----------- 実は話には続きがあって、最後の抗がん剤を受けた日が新月で、その時の新月の意味が「新しい船出の時です」って書いてあったり、寛解の知らせを受けた日が、不思議な天気で、晴天からいきなり剛風豪雨になって、また晴天になって虹が出て、それを見ていた息子が「さっきの嵐、ママの治療中みたいだね。いきなり始まって、最後は虹まで出たもんね。」ってボソッと呟いたり。 もう色々受け入れるしかない(笑)。

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